心霊スポット「妙高高原ホテル」が巨大廃墟になった真相 森トラスト・森章が開発主導もバブル崩壊で雲隠れ


■森章と「ラフォーレ妙高高原計画書」
■森章と「ラフォーレ妙高高原計画書」

■夏は国立公園でハイキング、冬はスキー場、温泉を愉しめる新潟・妙高高原。2015年には上越新幹線「上越妙高駅」が開業し注目を集めている。この風光明媚なリゾート地に暗い影を落としているのが、心霊スポットとして有名な巨大廃墟「妙高高原ホテル」だ。建材にはアスベストも使用されており、周辺住民にとってはある意味公害となっている。当サイトは一昨年、この廃墟が出来た背景に森トラスト会長・森章の存在が見え隠れしていることを指摘した。今回、新たな資料により森章がホテル開業を主導していたが、バブル崩壊と同時に雲隠れし、ホテルが廃墟と化した詳しい経緯を知ることができた。

妙高高原ホテル(出典・廃墟演舞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~metamorphose/)
妙高高原ホテル(出典・廃墟演舞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~metamorphose/)

■このホテルが初めて建築されたのは1964年、当時の日産生命保険相互会社が保有していた。しかし、80年代頃から経営が傾き始めたため、TBSの子会社であった東通開発の手に渡った。現在の所有者である㈱妙高高原ホテルに所有権が移ったのは91年3月末で、取得資金は若築建設が出している。
■登記簿などの公然資料からは森トラストや森章の痕跡は見えてこないが、㈱妙高高原ホテルが物件を取得したのは、森章の指示のもとで「ラフォーレ妙高高原」を開業させるためである。例えば、88年に当時の森ビル観光㈱(現・森トラスト・ホテル&リゾーツ㈱)、関連会社の森ビル観光リゾート設計㈱、㈱妙高高原ホテルの3社連名の「ラフォーレ妙高高原計画書」がある。「如何にして稼働率の向上を計ると共に,ハイシーズンにおいて,有効な価格政策を展開できる施設とするか」をテーマとし、周辺住民との良好な関係、クアハウス(温泉)の導入、宿泊機能の拡充などの計画が綴られている。
■妙高高原ホテルが土地を取得する前月、91年2月25日付で森章が妙高高原ホテルの代表者に宛てた書面では、5年以内に竣工・オープンをすればラフォーレ倶楽部の施設の一部として使用する旨の約束がされている。森が計画を練り、ゴーサインを出し、土地が取得されたという状況証拠だ。
■その他の資料を総合すると、㈱妙高高原ホテルが表だって地元住民の懐柔を行い、凡そ40億円でホテルを建て直し、完成したらラフォーレ妙高高原として森トラストが使用するというのが青写真だったという。若築建設も森章側が用意した資金提供者で、マリコンの若築がホテル建設に手を出したのは森章の信用と、再建築工事を受注することができるという旨味故だ。㈱妙高高原ホテルの役割は“前捌き”にすぎない。ところが計画が始動して間もなく、森章が「入院」などを理由に雲隠れし、計画が頓挫する。なぜか。
■微妙な時期だった。計画が始動した91年2月以降、日本経済はバブルが崩壊。資金を出した若築建設もほどなく、当時の親会社・石橋産業が許永中事件に巻き込まれるなどあわただしくなる。一方、森章は93年に森ビル開発(現森トラスト)の社長に就任。きっかけは定かではないが、バブルが崩壊したことでホテルを開業させるリスクを取りたくなくなったのであろう。だが森が手を引いたことでこの計画は収拾がつかなくなった。バブル崩壊後、ホテルの躯体は朽ちていき、建物内でホームレスが亡くなるなど実際に死人を出す中で、心霊スポットと化していった。
■森トラストは前回のレポートで「古い話なので資料がない」と回答していた。今回改めて取材を申し込んだが、「お答えできない」とのことで事実上取材を拒否している。会社に資料がなくとも森は覚えているはずだ。一昨年に会長に退いた後も、北海道苫小牧市で大規模リゾート開発に臨んでいるが、不動産ディベロッパーとしての過ちに真摯に向き合った方がいいのではないか。(つづく)
(文中敬称略)

2016年7月4日付レポート:森トラスト会長・森章が残した“負の遺産” 心霊スポット「妙高高原ホテル」処理問題、北陸新幹線開業で再燃か

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